高橋洋監督作『ソドムの市』を少しずつ観たおはなし

高橋洋監督の『ソドムの市』を借りてきて最初の20数分くらいまで見たんだけど予想してたより自分にとっては面白いなぁ。 冒頭数分でいきなり出てきた元やるじゃねぇかーずの浦井の顔にはいきなり笑ってしまった。 浦井を見るのはかなり久しぶりと思うけどなんちゅう表情を表情しているのか。 どこ見とんねんと。 ソドムには出てないけど映画やコントで板尾を見る時にもなんでその場面でそんな顔なんだとよく思うんだけど、それはすごいとか巧いとかそういう意味合いで、でも浦井の顔はそれとは真逆の意味のすごい顔だった。 映画番長のサイトで浦井が出演してる事も演技が変らしい事も情報として知ってたけど普通に下手なだけであんな顔できるんだろうか。 できるんだろうな。 浦井の顔や演技がこの映画のリアリティの無さを補強してるというかむしろこの映画のアンチリアリティの可能性の中心というか。 逆に演技の質が一人だけおかしいというリアリティがありありと出ているというのかな。 よく映画で使う気になったなぁ。 関係ないけど藤井隆を売れない方向でハンサムにした感じの風貌だな。 あとソドムの市のテロップが出た前後の辺りで、そっちの市かい!と思わず口に出して突っ込んで笑ってしまった。 こんな風に映画をぶつ切りにして見るのがいいのかみたいな所はあるんだろうけど。 



(1;19分くらいの所まで見た追記)
どう見てもどこかの倉庫みたいなのにしか見えない場所でソドム達と道端で出くわした風におばあさんが出てきたり、女の人が2人首だけ出して生き埋めにされたり、どこかの事務所みたいな所が派出所だか警察署扱いになってたりというチープなシーンがあちこちであって、お金がない事からの開き直りもあるのかも知れないけど、この映画には美術や場所のリアリティなどいらないとでもいわんばかりにらしく見せる事を堂々と放棄してるよなぁ。 ノンフィクションじゃないしドキュメンタリーじゃないから作り物めいてるのは当たり前なのになぜリアリティが必要なのか、いやいらないとでもいわんばかりの作り物感覚。


映画以上に演劇の事は知らないけどこういうのって、舞台美術を簡素化や抽象化して、照明や演技者の演技力だけで場をを観客に想像させてくようなタイプの演劇のやり方に近いのかなぁとか適当なことを思ってみたけど、『ソドムの市』は演技もリアリティを狙ったものじゃないから俳優の演技に多くを託すという方法からもずれているのだよな。 だから、話や映っているもの全てにリアリティが無いという事をたえず意識させられたまま見続けざるをえない。 なんていうか、荒唐無稽な脚本を分かりやすく読み聞かせるために動く絵本を仮組した骨組みだけのような映画にも思えるし、それが印刷された紙質や活字の形をたえず意識しつつ文章を読む神経質な状態の読書体験に近いというのかな。 何か違うかも。


『ソドムの市』は話や展開のむちゃくちゃな感じが、高橋洋監督が脚本を書いた佐々木浩久監督の『発狂する唇』や『血を吸う宇宙』などに似てるんだけど、いや同じ人が脚本をやっているのだから似てて当たり前だけど、大きな違いは『ソドムの市』には佐々木浩久監督の映画にあるような湿り気が無い所だと思う。 湿気っていうのは、んー何て言っていいか分からないんだけど、ある種の日本映画にある青臭さが無い、というような感じかな。 だから何だと言われてもどうもしないのだけど。



(最後まで見終えてからの追記)
浦井崇って芸人を辞めた後、映画美学校行ってたのか。 刑事まつりの『アメリカ刑事』も見てたけど妹役の印象しか残ってなかったし浦井だと気づかなかったな。 まぁ浦井ややるじゃねぇかーずに関心が無かったので気づかなくっても仕方はないのだけども。 黒沢清監督の『大いなる幻影』にも出演していたようだ。


ということで、『ソドムの市』を最後まで見たのだけど最初の印象が変わらないまま見終わったなぁ。 『ソドムの市』は、話や美術がとんでもなかったりチープだったりするんだけれど、それぞれのシーンの撮り方見せ方が、刑務所の牢屋内にいる人の上に丁寧に檻の影を落としたり、マチルダとテレーズが円卓で向かい合いにらみ合って立ち上がるシーンをアクションで巧く緊張感があるように繋いでたり、出てくる戦闘機の、ロゴなどの見せ方や飛ばし方とか、その他色々なシーンが、その場で表現したい雰囲気、たとえば怪しさとか、だけをただ出そうとしてるんじゃなくてそれがどういうシーンなのか見る人にとって簡潔に分かりやすいよう撮られてたと思うし、美術などのせいでこの映画が出鱈目に作ったように一瞬見えるけど違うと思う。 ただ、黒沢清監督が「俎渡海新聞第4号」に載っていたトークショーで発言していたような、「自分の撮りたい画だけで作った映画」みたいな作り方をした結果なのか、それぞれのシーンは分かりやすいけど全体としてはどういう物語でどういう展開なのかなんだかよく分からない事になってた。


ところで、『ソドムの市』で一つだけきになったシーンがあって、それは、テレーズが炎を背景に銃を構えたら、ソドム一味が車で逃げ、それをテレーズが追いかけて撮影してた部屋から出ると炎の映像を背景にした撮影のセットが丸見えになってしまうっていうシーンなんだけど、他のシーンは美術やなんやかやがチープに見えても美術の撮影の裏側を見せてなかったのにそこだけ裏側をわざと見せて楽屋落ちにしてて、『幕末太陽傳』じゃないんだし何やってんの!って思ったんだけど、オフィシャルかどこかの記述によると、そのシーンのアイデアは助監督の安里麻里が提案したもという事だった。 チープな美術をチープな美術として即物的に撮った結果チープな美術に見えてしまうのと、撮影の裏側を撮ってチープな美術をこんな撮り方をしていますと説明的に見せた結果そのシーンがチープに見えるのとでは、全然意味が違うんじゃないだろうか。 


マックスになってないクライマックスで、テレーズとキャサリンが刀を構えて向かい合ってるのだけれど、2人のその刀を持った構えの決まり加減と迫真の顔の表情が笑えて仕方なかった。