洞口依子の手記


朝日新聞の夕刊 204年11月15、16、17日の文化面に掲載された洞口依子さんの手記を転載しておきます。

  診察台


 今年の2月、手術を受けた。昨年の秋頃から痛み出した腰痛をいつもの事と見過ごし、不正出血をホルモンバランスが崩れたなどと決め込んでいた。私のことだ、暮れの慌ただしさに背を向けた怠け病かとも思った。
 それにしても、疲労が抜けない。頬が干した果物のようにガサガサしている。腰の腰痛、立ち眩み、出血は日毎ひどくなる。
 松が明けた頃、友人に促されるまま赤坂の病院にO医師を訪ねた。彼女は触診するとすぐ、国立病院へ行って検査するよう勧めた。
 ラテンの国にありがちなインチキで可愛いマリア像のような妊婦がいっぱいの待合室でぼんやり待った。診察室に入るなり、いきなり手術の検査に行ってきてくださいと言われた。検査室をウロウロする傍らで、夫がしきりにはしゃいでいる。あっちが食堂だとか本屋も売店も理髪店もあるとか。その声が遠い。
 下着を脱いで診察台に上がる。妊娠を確かめる時以外は憂鬱で奇妙なただの椅子。もっとかわいくすればいいのに。フリーダ・カーロならそうするな、などと気を散らしていたが、診察を終え、椅子の下のトレイに真っ赤に染まったガーゼの山を見つけると、倒れそうになった。新しい痛みがそこに残った。
 先生から話を聞く。優しく、しかしあっさりと「ガンの可能性がありますね」。
 耳を疑った。隣の夫は、壊れた人形みたいに頭を傾げて口が半開きだ。黒目も点になっている。それ見て、初めて涙が出た。
 それでも半信半疑、細胞診の結果を待った。結果はやはりガンっだった。

  シャボン玉


 私の病気は子宮頸癌(角化型扁平上皮癌)というものだった。進行期Ⅰb2期からⅡa期。手術は広氾子宮全摘術。要は子宮・卵巣・骨盤内リンパ節、それらを支える靭帯を全部取るという手術を勧められた。外科的手術で最初にどれだけのガン細胞を取り除けるかが重要なのだそうだ。もちろん抵抗はあった。
 お腹を切り、子宮をはじめ臓器を摘出する。子供はもうできない。できないことは、もちろんそれだけじゃない。卵巣を残す手だてはあるそうだ。でも、出産だけを切り離して考えることがどうしてもできない。メモ用紙に癌と、書いたこともない漢字をいっぱい書く。結局は言葉だ。ネットで調べたり図書館で調べたり、言葉にまみれて疲れ果てた。
 ひょんなことからお名前を知った放射線科のY先生を訪ね、放射線治療や化学治療と、外科治療との違いをうかがった。そこで新たな事実と向き合わされる。見せられた画像に直腸への浸潤の可能性が見受けられた。浸潤していたら手術は無理だ。ダメなら閉じる。とにかく手術をしましょうという結論になり、2月に8時間に及ぶ手術を受けた。
 後になって写真で見た私の一部。たまごサイズのガン細胞以外はみんな本当に丈夫で健康そうな臓器だった。ぽつんと空虚な悲しみが、割れないシャボン玉みたいに浮かんで舞う。それでもまだ、自分の中から失われたものが何か、手触りはなかった。リンパ節に転移があったので放射線、化学治療も受けた。その苦痛に紛れたのかも知れない。ぼんやりした頭でただ退院を待った。

  短パン


 子宮ガンの手術は成功だと言われた。
 髪の毛はそんなにやられなかったが、しばらくは手足が利かなかった。腸の障害にも悩まされた。退院しても調子は良くならない。
 体の自由も利かず、トイレさえままならない。夫が出勤して独りになる。時計の針が進むばかり。こんなに広い部屋だった?
 太りやすい体になった。体力も無くなった。女優としては最悪だ。字妙の座骨神経痛もあって、一時は車椅子でロケに向う有様だ。みんながひそひそ話していると、自分のことを言われてやしまいかと疑心暗鬼になった。
 ある夜、気づくと私は道路の真ん中を走っていた。対向車に体当たりしようとしていた。ふいに足がもつれ、白線にしゃがんだ。無力だった。おんおんと泣きながら家に帰った。
 このままでは壊れていく。それで、思い切って沖縄へ向った。南ならどこでもよかったが、そこには島の友人がいた。
 東京では履かない短パンになったら、何かがごそっと落ちた。服の重さだけではなく、意味のないプライドがごっそりと。
 東京へ戻って仕事を始めた。体を減量する努力も始めた。そのとたん、今度はパニック障害におそわれた。何の前触れもなく過呼吸になり、全身硬直して身動きできなくなる。
 でも、私はめげない。私は、もうどこかで闇を見切ったのかも知れない。私の中にある闇を私は自在に操れる気分だ。ここにいる、この私が私だと今は言いきれる。・ガンになって、女のモノを失くして、やっと辿り着いた私。―ただいま。


部分的にどこかを抜き出して引用しようかと思っていたのですが、元が短い文ですし中途に引用して文意がおかしくなるよりはと全文引用してしまいましたけれども、全文引用するのもいかがなものかとも思うのでそのうち消すかも。