アニメの感想とかかな

BLOOD+ 50話(最終話)
いわゆる最終決戦。 半死状態で襲いかかったアンシェルを、小夜の剣を使いハジがなんとか倒す。 しかしアンシェルもろともハジが劇場の崩落に遭い生死不明。 その何年後かに、ディーバの子供達とカイが小夜が眠る遺跡だかお墓にやってくると、見覚えのある紺の細いリボンが結ばれた青いバラが備えられていた。 おまかにするとそういうあらすじ。


それにしても、ハジの死に別れ際の「なんくるないさ」には爆笑してしまった。 ハジが、カイやカイの語る人生のとらえ方を受け入れた事を意味する重要なシーンなのは分かるのだけど、ハジが言うと違和感が漂いまくるというか、そもそもこの「なんくるないさ」という方言を重要なキーワードにしてしまったのが巧くない、巧くいってないのではないかと思う。 方言をリアリティとして表現できてない沖縄や沖縄の人の描き方をしてその上にその方言の中の1つの言葉を特権化して扱うということがBLOOD+の世界にとって二重にリアリティを失っていて、だから、その言葉が特別な言葉として使われるたびに聞いていて違和感を感じたりや少し恥ずかしくなってしまうのではないだろうか。 地方を描く時に必ずその土地やその土地の言葉のリアリティが必要とは思いはしないし、中途に方言を導入して変なイントネーションになったり違和感を醸し出すくらいなら、昔の漫画やアニメでよくある日本語をしゃべる登場人物が外国の人とも普通に日本語で通じて語り合ってるような大らかなノリで、沖縄も全て標準語で通してしまった方がましだったようにも思える。 まぁ「なんくるないさ」以前にBLOOD+はタイトル名などの言葉のチョイスがいまいちだったわけだけれど。 いやよく考えたらっていうか考えなくてもBLOOD+ってカイ達は外国の人とも普通に会話してるアニメだったなそういえば。 それに沖縄でも普通に標準語バリバリしゃべっていたよな。 なので、沖縄で普通に標準語で会話が交わされているのに重要なキーワードにその土地独特の言葉を使ってしまってるのが、「なんくるないさ」に対する違和感の源泉なのだ、という感じか。 いつものことだけどあらかじめ文章を推敲するべきと思った。

もう少し追記する予定。


オフィシャルファンブックの内容はこんな感じとの事
BLOOD+ ENCYCLOPEDIA(マニアックにあこがれて)
http://hirarinko.seesaa.net/article/23903431.html
http://hirarinko.seesaa.net/article/23955107.html
スタッフの発言を知りたいだけなのでインタビューを立ち読みで済ませたいのだけど読めなかったら買うしかないなぁ。 アニメ雑誌もここ数ヶ月全然チェック出来ていないし何よりニュータイプ誌上の平松禎史BLOOD+版権イラストを見逃したのがショック。 まぁニュータイプはムック本よりは古本で買える可能性があるけれども。 前にも書いたけれどトップをねらえ2!もこういうムック的なもの出してくれたらいいのに。