アニメのBGMや間のことなど

アニメ作品によって合う合わない音楽のことをこの前少しだけ考えメモして、その後考えるでもなく頭のどこかにそれを置いといたまま色々生活をやっていて、つい昨日思い返したのだけども、そもそもその作品の雰囲気や音楽の種類と関係なしに、演奏シーンやオーディオ製品から音が流れているシーンではない映像に音楽を付ける事自体が元々は特殊な事だったんじゃないか、という事に思い当たった。 実写やドラマ、映画、ゲームにBGMが付いている事は現在ごく当たり前になっているけれど、これって慣れたから普通に思えているのであって、元々は特殊で違和感があった事なんじゃないかなぁ。 でも無声映画を上映していた映画黎明期に既に音楽の伴奏付きで上映してたって話があったと思うし日本は弁士がBGMの役割を果たしてたとも言えるし、映画より歴史の古い演劇ではいつぐらいから演奏付きで上映されていたのかなぁ。 っていうか、劇と音楽の関係を言い出したら、ほとんどの歌の歌詞には物語があるわけだけど、それはまず物語を歌ったのが最初か歌が先で物語は後から付いてきたのかとか、物語や詩の朗読に既に音楽の要素はあるんじゃないかとか、原初的な話ってわけがわからなくなってしまう。 いや、ようするにそれだけ古くから音楽と劇に関わりがあるんだから映像にBGMが付くこと自体に違和感が無くなっていて当然か。 一周回っとるな。 書こうと思っていたのは蟲師のOPEDや音響に微妙に違和感があって、それはクオリティが低いとか全然合ってないとかいう事じゃないし、最初思っていた和物と西洋的な音との相性がどうのっていうのとは別の特定の作品に限らない繊細な問題があるんじゃないかって事だったのだけど、自分の能力以上の事を書こうとすると駄目だなぁとか思った。


ところでパラダイスキスの3話を見たけど、人間関係の間がいまいち巧くいってない気がしたので小林治監督がコンテを切ってるんじゃないかと思ったらやっぱり切っていたので笑ってしまった。 下手とか巧いとか以前に監督自ら脚本とか色々やっているのでじっくり演出する時間ないんじゃないだろうか。 今まで見た中で一番面白かったのは個人的には2話で、1話、3話と比べたらキャラクター達の情感がわりかし出てたように思う。 同じ監督のBECKにも思った事だけど、小林治監督のアニメはユーモアが巧く機能していないんじゃないかなぁ。 パラキスはユーモア部分は簡略化されたキャラを使って動かして通常のかっちりしたキャラクターデザインと落差を付けていて、それはユーモアを描くためだけじゃなくて、通常時のかっちりした作画が崩れないように逐次逃げ道を作ってるからでもあるんじゃないかって勝手に思いこんでいるんだけど、簡略化してコミカルに動かしていても面白みになり切れていないように思う。 BECKの時はそういうわざとの崩しをしてなくて、多分オフビートでユーモアを作り出そうとしてたと思うけど、それこそ間が大事なのでユーモアが巧くいってなかったと思う。 でもオフビートって何かっていわれてもよく分からないんだけども。