ピノッキオの冒険を読んだりパルムの樹やファンタジックチルドレンを語ってみたり


少し前に、現在視聴を続けているアニメの『ファンタジックチルドレン』との絡みもあって、同じ監督の『パルムの樹』を見返そうと思い立ち、どうせなら『パルムの樹』の元ネタの1つのピノキオもこの機会に読んでおこうという事で福音館古典童話シリーズの『ピノッキオのぼうけん』も読んだのだけれども、ピノッキオって話の最初の方で人形に削られてる途中でいきなりおじいさんを蹴ったりすぐ後で物知りのバッタをノミを投げて殺したりしてるし、有名なエピソードの道端で出会ったキツネとネコに騙されるシーンでは悪いどっちかの足をかみ切ったりもしてるのだな。 そうそう童話ってこういうノリだよなって思いながら読んだ。


かつて子供の頃に自分が読んだのは抄訳だったのだと思うけど、ピノッキオに限らず童話とかって子供に怖さを学ばせる目的があるせいなのか残酷な展開になるものが多いし、それを考えてもパルムの樹が童話と比較して特別残酷だとか暗い話って感じでもないなと思う。 ただ、やっぱり本に印刷された話ならどんな残酷なエピソードでも文字面だけをさらっと読めるかも知れないけれどそれが映像化された時には同じ話の文字の時よりも残酷さの印象が増して感じる事もあるのだとは思う。
あと、手塚治虫だか日本の漫画だかの凄さについて海外のアメコミと比較した外国の人の意見で、あのキャラクターでシリアスな内容を語らせてるのがすごい的なものを、夏目房之助の本でだったかな、見たことがあるのだけれど、パルムのわりと簡略化された見ようによっては可愛いかも知れないキャラクターでバンビを殺すとか、ポポやシャタに対してエゴをむき出しにするとかそういうキャラの絵柄と行動の落差も見る人によっては残酷さや不快感を強調させてしまっているだろうな。 そういう展開になるのが急に思えるから驚くとか違和感を感じるというのもあるのかも。


そういえばかなり昔大友克洋の書いた『ヘンゼルとグレーテル』というちょっと大きめの版型の漫画の本を書店で見つけて立ち読みした事があって、ちょっとめくってすぐにその本が欲しいと思ったものの、その時は持ち合わせが無くてそのままずっと買い逃してしまって今に至るのだけれども、あれって今でも買えるのだろうか。 今無性に欲しいのだけど。 (調べてみたら既に絶版になっているようだ。 たまに行く古本中古を売っている店でプレミア価格で売っているのが分かった。) 内容は全く思い出せないしパロディ漫画だったかと思うけどあれも大友の絵柄のせいもあるだろうけど漫画としてビジュアル化すると残酷さを増して感じさせてしまうような漫画だったな。 個人的にはスチームボーイの続編作るよりはあれをぜひアニメ化して欲しいなぁ。


話は『パルムの樹』戻るけれどもこの劇場アニメを見返してみて、ピノッキオが最後に人間になったようにパルムがラーラだったかの身体を借りて人間(的なもの)になるという終わり方もありえたんだなと思った。 でもなかむら監督はあえてそうはしなかったのではないかな、とも思ったのだった。 パルムとラーラがしばらく無言で見つめ合うシーンがあったのだけどあそこでパルムはラーラの身体をもらうのを断ったんじゃないかな。 登場キャラクター達にとって欠けたもの足りなかった物が最終的にもしくは成長過程で埋められるのではなくて、欠けて空洞になった部分をそれ自体として受け入れる事で、欠けていたものによって起こった不安定な状態を欠けたまま乗り越え成長するという話にしたかったのではないかなと。
パルムはある時点まで、自分の色んな問題や自分がシャタのように勇敢じゃない事を自分が人形だからだと思っていて、人間にさえなれば全て解決すると思っていたんだと思うのだけどポーラの魂を抱きしめた時に、ポーラが魂になっても自分の父に認めてもらえなかった事に固執している事や魂になってはいるけど人間も苦しんでいる事に気づいて身体の問題じゃない事に気づいたのだと思う。


パルムの樹と『ファンタジックチルドレン』は過去の扱いが逆になっていて、パルムの樹の主要人物の多くが自分の悲しい過去に囚われているのに対してファンタジックチルドレンのベフォールの子供達は転生した時のあちこちでの幸せだった過去に囚われたりする。 話の展開がいまいち読めないし勘違いしてるかも知れないけどベフォールの子供達は、自分達にとって過去である未来?へ戻れば何かが解決すると思っているようだけど、戻る事では何も解決しない展開になるんじゃないだろうか。

あと『パルムの樹』を見終えたてすごく思ったのだけれども、パルムはシアンだけじゃなくたまには自分を作ったシアンの旦那さん(フォー)の事も思い出してあげて下さいと思った。 今『手塚治虫コナン・ドイル』という本を読んでいるのだけれど、その本の中で手塚とドイルの父親感を比較する時に萩原朔太郎の「父は永遠に悲壮である」という一行詩を引いてあったのだけどまさにそんな感じ。 あの映画の後パルムに愛されない父親の魂が愛されることを願ってコーラムのように彷徨い続ける話が展開されてないか心配だ。


ピノッキオに出てきたコンビはキツネとネコだった。 タヌキじゃなかった。 直したー